シリーズ:不寛容社会を考える。(その1)

シリーズ:不寛容社会を考える。(その1)

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不寛容社会を考える。(その1)

 日本では近年、芸能人の不倫など自分には直接関係のない事に対しても攻撃的な反応を示す人々が増え、不寛容社会へと突き進んでいる。また自分の思想や常識とそぐわない人を受容・寛容することができずに排除しようとする風潮が強まっている。東京に在住している筆者も、朝の満員電車で口論をする人や、とっくみあいの喧嘩を始める人を度々目撃したことがある。これらはきっと些細な事が原因なのであろう。満員の電車内で携帯を見ていた人を小突いて口論になっているのも見かけたことがある。また実際に筆者が乳児を連れて電車に乗っていた折、乳児が泣いた際には電車から降りるように怒鳴られたこともあった。このような「不寛容社会、排他的主義」が広がることは、結局は個々が住みにくい窮屈な社会へとなっていくだけではなかろうか。

 ここでは、日本では何故極端ともいえる「不寛容社会」へと変貌を遂げつつあるのか、考えられる原因について考察してみたい。

① 日本国民の生活水準の低下

 おそらく、最も単純かつ大きな理由の一つとして考えられるのは、バブル崩壊以降、低迷を続ける日本経済がある。また非正規雇用が拡大し、東京圏で金銭的に安定した生活をするためには、一部の富裕層を除き共働きがデフォルトになりつつある。日本においてバブル経済が崩壊した1990年代初頭から「失われた30年」とも言われているが、この間に他の先進諸国における平均賃金が軒並み上昇している中で、日本ではほぼ横ばいである。実際には消費税や社会保険料の増税などによって生活水準は相対的に低下している。また、非正規雇用が拡大し、法人による内部留保が増大する一方で、国民の平均的な生活水準はむしろ下がっている。

 2020年4月1日から施行される「同一労働同一賃金(別名:パートタイム・有期雇用労働法)」では、ようやく正規雇用労働者(無期雇用フルタイム労働者)と非正規雇用労働者(有期雇用労働者、パートタイム労働者、派遣労働者)の間の不合理な待遇差の解消を目指すこととなったが、非正規雇用労働者の待遇改善が実際にどの程度進められるかは不明である。非正規雇用労働者が真面目に業務をこなす中で、正規雇用労働者が居眠りをする不条理を目の当たりにすると、なんとも言えない気持ちになるが、それは日本の雇用制度の問題点として別の機会に私見を述べたい。

 結局のところ、日々の生活に疲弊し経済的かつ心理的に余裕がなくなったストレスを多く抱えた人が増え、自分の主義・思想・常識・正義とは異なる事象に遭遇した際に攻撃的かつ排除的な行動へと結びついている可能性が考えられる。

② インターネット環境の普及、ソーシャル・ネットワークの台頭

 別の要因として考えらえるのは、インターネット環境の普及やコミュニケーションネットワーク、ソーシャルネットワークの台頭が挙げられる。これらはむしろ、元々持っていた不寛容性を顕在化させる環境が整備されてきたともいえる。インターネット環境が整備されていない頃には、極端な例では非難や攻撃は手紙や電話など広く一般の人々が閲覧できない媒体を介していた。しかしながら、インターネット環境が普及し、ある特定のニュースに対して気軽にコメントを投稿できるようになり、さらにはそれを多くの人が見ることができるようになった。例えば近頃話題になっている不倫についても、一斉にバッシングのコメントが寄せられ、それに便乗するかのように炎上が続いている。(筆者は決して不倫を肯定する意図はないことを付記しておく)

 インターネットの普及は生活を便利にし、多くの経済的利益も齎してきた。一方で主義・思想・常識の固定化、画一化を産み出してきたとも言える。日本はほぼ単一の民族で構成されており、元々、思想や価値観が比較的似ている背景に加え、インターネットやソーシャルネットワークサービスなどの普及による価値観等の画一化が拍車をかける形で不寛容社会が顕在化、深化しているのではなかろうか。

 世界的には、物流や人材の移動が活発化し、性別や人種の違いに限らず、年齢、価値観、学歴や性格などの多様性を受け入れ、活用する事で生産性を高めようとする「ダイバーシティ」を重視する傾向にある。斬新なアイデアを発想し、多様なニーズに応えるためには、不寛容社会から脱却し多種多様な価値観を受容する社会を醸成していく必要がある。さもなくば、遠くない将来には日本はガラパゴスと化す恐れさえあるのではなかろうか。

③ 教育環境

 上記の思想や価値観が比較的似ている背景にはほぼ単一の民族で構成されていることだけではなく、教育環境も大きく寄与していると考えられる。欧米におけるクラスは日本に比べて少人数であり、文化や個性を尊重した教育が行われている。一方で日本では個性を延ばす、多様性を認める教育が十分に行われているとは言い難い。こうあるべきだといった押し付けにも近い教育によって同質を是とする環境におかれることで、逸脱した異質なものを攻撃、排除する風土が醸成されている可能性がある。

 話は逸れるが、常識に囚われない人に対するバッシングには、個性を前面に出した異質に対する嫌悪感や警戒感だけはなく、潜在的には羨ましいといった妬み・僻みにも似た感情が含まれていると筆者は感じる。例えば、某ファッション通販サイトの社長は膨大な財産を築き、色々と世間を騒がせているが、このバッシングには単純に妬みや僻みも多分に含まれているものと想像される。(実際の割合については知る術もないが)

終わりに

 ここでは、不寛容社会に対する私見について、触りの部分だけを記述したが、考えられる要因とその対策について随時、追記していきたい。

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